November 19, 1990 02:40 [自分史]

自分史:「小学5年生6年生」

カナダにいた頃は、英語がしゃべれてた……と。
今までそう思ってたのですが。

よく考えたら10才って。日本語だったとしても、
「あーーーいーけないんだいけないんだ!」
「それーオレのだぞー」「先生に言うぞー」とか。
そんな類の内容しか話してないわけですよね。(笑)
それぐらいなら話せるか。www

それはさておき。

そんなこんなで、1年カナダにいて、5年生の秋に帰国。
同じ小学校にふたたび転入。ただでさえ転校生って目立つのに、
カナダからだしなー。カナダ行く前も半年位しかいなかったから、
友達関係もほぼゼロベース。
そんなもんで、扱い的には「カナダさん」とか呼ばれてました。w
安易なネーミングセンスですよね、さすが小学生。
まあそのうち慣れましたけど、お互い。

帰国してから、なんだかんだで普通に小学生時代を過ごしてました。
ただ、自分的には日本文化がその頃は大嫌いでした。
戦後の日本がアメリカコンプレックス持ってたみたいに、
なんか欧米コンプレックスがあって、日本文化は低レベルだと、
そう思ってた時代でした。

カナダに行く前は、キョンシーが流行ってたから中国文化に
憧れがあって。今もなんとなくそうした古いアジアの王宮文化
とか風水的なものとか嫌いじゃないですが。
カナダから帰国してからは、特に欧米文化に心酔することは
なかったけど、カナダの文化と日本文化がなんか低レベル
なものだと(思春期でひねくれてたもんで)思ってました。

まあ、とはいえそんなひねくれっぷりもあまり表立っては、
外に出さず、ひたすら隠してた気がします。
せっかく身に付けた(のは錯覚だったかもしれないけど)
英語とかをふくめて、あまり目立つと「目をつけられる」文化に
おびえて隠して。塾に行ってる人も「ガリ勉」って言われて敬遠
されるような文化だったから、徹底的にそういうのを避けて、
なじむように心掛けてた気がします。

この頃は、とにかく大人しく...。
親は中学受験をしてほしかったみたいだったけど、
頑なに拒みました。こわかったし。なんか。

同じ学校への2度の転校生経験で、
微妙な(今でいう)アウェイ感を感じたせいなのか。
溶け込みたい思いが、たぶん人一倍強くて、
必死だった気がしますね。
(その頃はとにかく世界も狭かったし気も小さかった…)

その頃で印象に残っていること。
すごいふとした瞬間に、幸せを感じたことがありました。

ある冬の日。弟と相部屋だったけど、すでに寝てて、
深夜22時ぐらいで両親もすでに就寝。
そんな静かな部屋の中で、ストーブに当りながら、
ひとり部屋で本を読んでる瞬間に。。。
「…ああ、今、めっちゃ静かで幸せかも」と。
心底幸せをかみしめた覚えがあります。(……暗っ!!)

あいだみつを、かよ!w
なんか何かを成し遂げるようなビッグな幸せというより、
この頃から、平凡な"普通"であることに幸せを感じていたような。

あと昔から、ひとりの世界に入るのが、けっこう好きだったんですね。
(そのわりになぜ今、ひとり旅できないのか謎ですが……)

 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

自分で言うの変ですが、まあ田舎の小学校ぐらいでは、
いい点数とれるぐらいの成績だったのと大人しかったので、
たぶん「優等生」のくくりだったと思うんですが、
すっとんきょうな子でしたね。テストとか勉強とかあらかじめ
ルールが用意されたなかでの答えにはわりと到達しやすい
んですが。いわゆる「頭のいい子」ではなかったのかもしれない
ですね。

でも小さい頃って、その区別ってよく分からないもので。
自分で言うのも本と変なんですが、自分を「頭のいい子」
というくくりなんだと思ってました。(笑)
当時はね……。

March 29, 1989 18:03 [自分史]

自分史:「小学校時代(中)」

小学校の3・4年。1980年後半ですねー。
いわゆる80年代、言ってみればバブル前夜・・・ぐらいなんですかね?
実感としては、よく分からないけど。

---小学校4年生---

小学校4年生。10才になる年ですね。
この1年はやたらと激動の1年でした。私的に。

まずは、5月に都内→都内なんですけどお引越し&転校。
幼稚園の頃の転園は、まわりも自分もその意味が
よくわかってないので、気持ち的には「初めての転校」と
いった感じ。

ただ初めてと言えども、転校という概念自体は、
小1か小2ぐらいのときにクラスの子が転校したことがあったので。

小学校のときとかって、転校するほうがお別れに・・・って記念品?を
配ったりしてましたよね。ま、今も転職のときとかクッキー配ったりするけど。

なんかそういうのを見て、子ども心に、
よくわからない憧れが。(笑)
なので親友と離れるのが悲しいというより、
そのイベント(祭り)にテンション上がってた覚えがあります。
 
 
 
で、その小4の5月に転校し、新しい学校に転入。
桜のきれいな校庭が都内で2番目に広い小学校でした。

どこから来たの?という質問に「市立第六小学校」と答えると、
「えーー私立なのー?超すごいじゃん!」
「え、大学小学校??」などなど。

持ち合わせの滑舌の悪さと、
天性のすっとぼけた社会常識のなさで、
ぜんぜんかみあわない会話。ww
私立という概念をそこで初めて知りました(笑)。

で、10月。

なんと親の仕事で、1年間、カナダに行くことに!!!

少し慣れたというところで、また引越し(転校&転入)。
ええーーーーーーー!?って感じ。

ただ・・・時は、ソウルオリンピックがあった年。
カナダに転校する・・と聞いたクラスメイトは色めきたつわけです。
「ベンジョンソンのサインもらってきてねーーーー」

・・・・・・って、フツーに無理ですから。ι(´Д`υ)

一介のニッポン人の10才の小学生にそんな権限もなく。
まあそんなこんなで、忘れもしない10月18日(←子どもなので
妙な記憶力のよさを発揮w)、カナダの地に降り立ったわけです。

最初、数日間は住まいの手配などのためにホテル暮らし。
子どもだから、カナダに来た感動とかよりも、食事がマック、
というのが嬉しかったり・・・(優先順位がおかしい)。

カナダは首都オタワに住むことになったのですが、
このオタワという都市ってば、
仏語圏のケベック州と、それ以外の英語圏の人たちが仲悪いため、
ケベックとの境界にあるという理由だけで、
首都に採用されたという田舎町。

さすがカナダ。首都の決め方が大雑把すぎるよ(笑)。


てなわけで日本語学校というものがなかったために、
現地校へ通うことに。しかもよく分からないシステムなんですが、
その地域の公立の小学校が2種類あって、
うちに近いほう?が、
・小学校1~3年生(?)の低学年と、
・小学校4~9年生(=中3?)の高学年とで、
学校が分かれてるの。なぜか。
(しかも分け方が完全におかしい・・・)

ということで、見事、小学校2年生の弟と、
小学校4年生の私とで別々の学校に行くことに。

カナダの小学校では、
ESL(English as a Second Language)という外国人向けの
クラスがあって、最初のころは、ほとんど1日中そっちのクラスに
いました。幸か不幸か、私のほうの学校には、同学年に日本人が
いなくてさらに、上級生に3人ほどいた日本人はみな男子。
ということで、デンマーク人のPernilleって子とつるんでました。

この子が、なかなかユニークな子で。

シュール1:
 やたら動物を飼っている。カナダにいるときはウサギと大型犬だけ
 だったのですがデンマークでは馬を飼ってたのこと。
 たぶん動物たちと話せたんじゃないか?と思えるような
 不思議ちゃん。ww

シュール2:
 ナイーブな性格だったらしく(←私が来てからは先輩として
 けっこう面倒見てくれたのですが)よく学校に来なかったり
 してました。今でいう不登校の寸前?みたいな感じ。

シュール3:
 あと・・・・ひたすら算数ができない子だったなー。(笑)
 小4でしたが、+/-がぎりぎり。かけ算がNGで。
 デンマークは算数のカリキュラムが遅れてるから、
 と言ってましたが・・・・本当かなあ。ww┐(´ー`)┌フッ

シュール4:
帰国後のことでしたがやたらチェーンメールが好きな子で。
ひさびさにメール来た!と思ったら、「このメールを友達に
転送してください」的なメールであること100%みたいな。
しかもBCCじゃなくて思いっきりCCメールで。w
ウケル・・・・。

 # まあ"不幸の手紙"的なやつじゃなくて、
 # 幸福のメール系だったから善意にあふれているんですけどね(笑)。

・・・・・そういえば私が学生ぐらいのときに、
子どもを産んだってメールきてたなー。
今、小学生ぐらい?かな・・・。

ま、脱線しましたけど、
そんな感じで、外国人仲間がいたので、
けっこう心細いことはなく、わりとすぐなじめたような気がします。
日本はカナダより、算数のカリキュラム、進んでたしね(笑)。

言葉の方も、最初の頃は、
2コ上(?)の男子のマコト君に通訳してもらいながら、
あと日本から持っていったスヌーピーの和英辞典を片手に
なんとかやれてましたね。意外とこのスヌーピーが役立つんですよ。
よく仲の良かったSusieという子に、意味が通じなくなると、
「Snoopyーーー!!!」って言われて、
辞書を持っていって単語を引いてもらう、みたいな。


カナダの小学校の変なルール
カナダってすごい寒い極寒の国なのに、
朝、スクールバスで学校に着いたら、始業まで学校の中に
入れてくれないんですよね。なぜか。今の日本だったら、
虐待とか大騒ぎになっちゃうんじゃないかと思うんですけど。
休み時間も必ず外に出されて、怖いおばちゃんがドアのところに
立ってるの。トイレ行きたくても申請制。
怖い上に言葉通じないし、もう完全にアウトでしたね、私は。

なんだかんだでけっこう面白かったですねー。
池というか近所の水たまりが凍って、
スケートが出来たりするし。

あと普通にスケートリンクもあるんですけど、確か、
なんか時間制で。2~3時間しかすべれないからハシゴをするわけです。
週末の土・日と。観光客気分の我が家のファミリーは、
めいっぱい週末になるとスケート場に通いまくってたのですが、
そのうち常連さんたちと顔なじみになってきたりね。

一度、夏場に特別にスケートリンクがOPENしたんですが、
そのときにいたのも、やっぱりいつものメンバーで。www
なんかほのぼのしてて笑えました。

Xmasとかはやっぱり良かったですねー。
特にパーティとかが・・っていうわけじゃないけど、
街中がイルミネーションできれい。ホームアローンとか、
そんな感じの世界です。お店だけじゃなくて、むしろ、
各家庭がイルミネーションしてて、それも雪世界だから
超雰囲気がステキです。家の近所に、ザ・クリスマスツリー
みたいな大っきなモミの木があってすごい綺麗でした。

・・・・なのですが、
私が行った年はなかなか雪が降らず、あわや、何年ぶりかの、
Green Christmas(←White Chirstmasの反対だそうです)
になるかも?とか騒いでました。(笑)
ぎりぎりでなんとか降ったけどね。

あと、カナダってシュールだなあ、と思ったのは、
いとこ達が日本から遊びにきたからお土産を探しに行ったんですが、
変なTシャツとか銅のお皿以外、ひたすら made in USA もしくは、
made in Japanだらけなんですよ。(笑)

・・・・・日本の国力の高さを感じさせられマシタネ!(´ゝω・`)ネ☆笑

ちなみにいま話題の消費税導入もこの頃で、
向こうにいる間に、おばあちゃんからの手紙で聞きました。(笑)
なので消費税導入の年はバッチリ年号で言える。ww

あと昭和から平成になったりとか。(たしか)

あとあと、カナダに行く前はあんなに流行ってたキョンシーが、
日本に帰国したら、みんな「あーあったねーーー!なつかしい」的な
リアクションで、超ショックを受けたり。
流行のはかなさを覚えたわけです。

10才という区切りの年で、
1988→1989という年は、
自分的にも世の中的にもかなり激動の1年でしたね。

なかなか貴重な体験をさせていただきました★

October 27, 1985 18:02 [自分史]

自分史:「小学校時代(上)」

小学校時代・・・・は、上・中・下の三部作ですかね。
て、そんな大層なモノじゃないですけど。。。

―――小学校時代―――

幼稚園もほぼ無事に卒園し、
家から通りを挟んで向かいにある小学校に入学。
「市立第六小学校」です。隣がけっこう大きな公園という
緑にあふれるのんびりした環境でした。

学校の流し(水道)のところにある窓から家のほうを見ると、
わが家のベランダがばっちり見える・・・ぐらいの距離感。

そういえば1年生は、クラスの色別に、画用紙に名前を書いた
名札をつけるんですが(上級生は布製)、これをよく、
つけっぱなしのまま洗濯しちゃったりね・・・したもんです。(笑)
1組は赤で、3組は青で、・・・・・私は確か2組だったかな。
みどりか黄色だった気がします。

私がこの学校にいたのは、4年生まで。
ウサギ小屋があったりチャボの小屋があったり、
なんか大きな石とかで出来た枯山水的な庭があったり。
あと渡り廊下とか、あったなー。なんかそれらの場所が、
なんとなくお気に入りの場所でした。孔雀のツガイが、
いたのは・・・こっちの前半の小学校だったかな?


1~2年生のときの担任の先生は、サカイ先生。
女性の先生で、厳しかった。今思えば、今の私より、
年下だったりするのかもしれないですねー(笑)。
・・・・しかし、えらいですよね、先生っていう職業は。


記憶に残ってる褒められポイント
その先生だったか、3年生になってから専任の先生か忘れたけど、
美術の時間によく褒められたのを覚えてます。・・・よく、じゃないかな。
たまに、だったから印象的で覚えてるのかも。(褒められた記憶のなかで、
印象に残って覚えてるの、美術がらみの内容が多いな、そういえば)

<褒めてもらったゾウの色>
  ゾウの絵を描く写生の時間で。
  たぶんグレーがかったカーキ色に見えたんでしょうね。
  黒+白のグレーを使って描いてる友達の中で、緑色の
  絵の具を使ったのを褒められたのが嬉しくて、
  すごく記憶に残ってる。

<ちょっと大人なチューリップの描き方>
  あとチューリップの絵を描くとき、
  輪郭を、ぐりっと一筆書きで描くんじゃなくて、
  3cmずつぐらいおきに少し隙間を空けて、
  輪郭をなぞると、塗り絵、みたいにならないよ、
  ってアドバイスもらった記憶がある。
  (あ、これ3年になってからの先生だな、たぶん。
  美術専任の先生だったと思います・・・)

ちなみに幼稚園時代の話に戻るんですが、
美術(お絵かき)がらみですごく印象に残ってるのが、
ある女の子。私よりあとに入って幼稚園に転入?
してきた女の子。すごく髪の毛が長くて、かわいい感じの子。
かわいかったのでみんなのアイドルだったのですが、
絵がうまくて、よく昔話の絵を描いてました。

その子が、あるとき、かぐや姫を描いてたのを横で見てたんですが、
竹の光を、黄色とオレンジ(または黄色+赤)のクレヨンの線を重ねて
オレンジ色の光を描いてて・・・。

おおーーーなんて斬新!!と思ったのを覚えてます。
たぶんそれを真似したんだと思いますね、ゾウの色は。。

でも岩崎ちひろが好きだったり、
けっこう水彩画は、好きでした。色が混ざってる感じ。
ちょっと偶然な感じ・・・・が。

 
 
担任の先生

とにかく厳しい1・2年の担任のサカイ先生でしたが、
3・4年の担任のカワシマ先生(男性)は、とにかく運動神経が
いい先生でした。アディダスのウィンブレを着てましたねー。
・・・て、なぜアディダスかというと、我が家ファミリーが、
アディダスのバッタもんウィンブレを着てたから(笑)。

チョット田舎の、のどかな、いい時代ですよねーーー。うん。(ノ´∀`*)

とにかく、このカワシマ先生が、体育の先生タイプだったんでしょうね。
細かいことを気にしないゆるいタイプだった気がします。
大人の顔色をうかがってしまう長女まるだしタイプだった私的には、
この頃から、外でも少し話せたり自己表現できるようになったような。
いまだに、ゆるくてあまり干渉しない自由主義な人のほうが、
性にあってるかもしれないです。www



将来の夢
この頃って作文とかで「将来の夢」とか書いたりしますよね。
当時から、お花屋さん・パン屋さんという女子ならではの将来の夢は、
意味がわからなかったです。たぶんこのへんは母の影響でしょうな。
まあ単純に、お花とかパンに興味なかった・・・ていうのも大きいですが。

そんな中で、わたしの将来の夢は「小説家」です。
「作家」だったかな。

これまた、自発的にそう思ってた・・・というより、
絶対的に両親に吹聴されて、そそのかされてた気がします。(笑)

だってその「将来の夢」の文集で、
イラストに、スヌーピーのメモ帳とか、書いてたからね(笑)。
小説とかの本と、メモ帳の区別がついてないシマツ。w

まあとはいえ、でも、本はめちゃめちゃ好きでしたねー。
ありがたいことに家の近所で、
手づくり感のある図書室みたいなのがありまして。

あれってボランティアとかだったのかなー。
週に2~3日しか空いてないんだけど、
朝借りて、もう次の本を借りときたいから、
めっちゃマッハで読んでその日の夕方に、
次の本を借りに行く・・・とかやってました。

なつかしいですねー。


あの頃を見習って、今、もうちょっと、
せっせと読書しなくちゃなんですけどね・・・・。

まあでも、文章書くのが好きだったりするのは、
たぶん今もまだその癖は抜けてないですね。
ブログにしても、メールの文章にしても、気づくと、
ついつい長くなっちゃう。。。

さらっと簡潔でミニマムなメールを書ける人になりたいんですけどね。
(読むほうもそのほうが楽だから・・・)

October 27, 1983 12:25 [自分史]

自分史:「幼稚園」

本と、このへんは、あまり書くこともないですが、
ちらほら記憶があったり、なかったり・・・・。
うーん、自分史ってどのくらいまで掘り下げて書くものなんだろう??

---「幼稚園」---

なんだかんだで、幼稚園って3種類ぐらい行ってるんですよね。
まあ、最初のアメリカ時代のは、親の思い出というだけで自分は
記憶がないのですが(幼稚園つーか保育園か)。

このへんから”転校生”人生のはじまり・・・・なわけです。
(このあたりが今の転職人生のルーツとか?)

最初にいった幼稚園。
近所の歩いてすぐの小じんまりとしたとこですね。
すごい狭い芝生の庭があったのを、なんとなく覚えてる気がするけど、
正しい記憶なのかどうかは不明。

ここでの記憶は2つ・・・ぐらいかなあ。
あまり覚えてない。

その1.フェルトとの出会い

なんか前にも書いたけど、父の日イベントか何かで、
ウィスキーボトルにお洋服を作ろう、みたいなのがありまして。

フェルト生地を切ってボンドで作るお洋服だと思うんですが、
フェルト生地ってやつに初めて触れたんだと思います。

なんかもともと工作的なことがすきだったのですが、
手芸的なのはほとんど触れたことがなく。
(我が家は、ハサミはOKだったのですが針が禁止だったので。)

フェルト生地に非常にテンションあがった・・・・ような気がします。
けど記憶としては、チョットあやふや。


フェルト(手芸)への憧れへ
でもその後、(これがスタートだったのかは置いといて)
フェルトとか手芸とかにすごい憧れを持ってたのは確かで。

小学1年のときに入学早々に選択授業みたいなのがあったのですが、
そこで”手芸クラブ”の授業を選択したのを覚えてます。

針禁止だったから、、、
手芸クラブに入れば、おのずと、それも解禁。
みたいな。強行突破大作戦。

・・・してやったり。みたいな。(笑)


その2.園児に必要?パセリの美肌効果

あ。そうそう、幼稚園の思い出ね。

もう1つは、なぜか印象に残ってる記憶なんですが、
お弁当のパセリを食べられなかったときに、先生に、
「パセリを食べるとお肌きれいになるのよー」って言われ、
「お肌がきれいになる」ことのメリットがまだ分からないまま、
そんなもんかーと思って、がんばってパセリを食べる記憶。

あまりに不可解で理解不能だったからおぼえてるのかなぁ。

なんでパセリが肌にいい?
肌にいいっつーかきれいになるって何?
みたいな。

でも、いまだにその都市伝説(?)を信じてます。
ま、パセリは食べないけど。w


そんなこんなで、途中で転校。

もともとそのエリアで主流の幼稚園が2つあって。
その2番手の幼稚園から、1番手の幼稚園(自分比)に、
転園したわけです。

1番手の幼稚園は、バスで行く、隣の町の幼稚園。
この前、Googleストリートビューで探したら、意外にも
近くまで見れて面白かったー。

近くでウシを飼ってた気がするけど、、、どうだろう??
ちょっと小高い位置にあって、お寺が経営する幼稚園でした。
こっちのほうが少し広くて、最初の幼稚園がお弁当なのに対して
こっちは給食とか。いろいろ違いがあり。

私は、ひよこ組(年少)→はと組(年長)とかだった気がするなー。
弟は、あひる組(年少)→あひる組(年中)→かもめ組(年長)だったような。

この頃、お散歩とかでかぶらなきゃいけない帽子が嫌だったんだけど、
最近、出勤途中でたまに見かける、園児たちのお散歩を見ると、
あの帽子はマストアイテムだなーとしみじみ思いますね。(ノ´∀`*)

かわいいし・・・・。w

あーー思いのほか長くなった。
さすがにこのぐらいから、記憶は出てくるよね。


最初の転園経験の置き土産

転園後の幼稚園のほうが、人数多かった分、
目が行き届きすぎない感じ。
先生も、目立つ子や、
やんちゃな子へのケアに比重が出てくるので、
私みたいなおとなしい子(←当時はまじで内気でおとなしかった)
にはけっこう放置状態。

まあでも逆にそれが、小さい頃から、干渉されないで
ほどよく放っとかれるのが好きだった私にとっては、
居心地が良かったです。

なので、転園後のほうがわりとハッピーだったな~。
仲いい友達もできたし。

でも、途中からジョインした分、
仲いい友達とも「途中からお邪魔させてもらってごめんね」感が
あったような気がするなー。遠慮というか。

なので仲よさ度もいつも自分は2番手なんだ、という思い込みが
ありました。本当の意味では入り込めない輪がそこにはある、みたいな。
こういう空気ってねえ・・・(それこそ今読んでる本にありますが)、
人のうわさも75日じゃないけど、本人が気にせず穏便に過ごしてれば、
自然と解消されるもの、というのに気づくのは、もっと先の話でして。
(つーかつい最近?w)

まあ、そんなこんなで、
人間関係には遠慮がちなコドモでした。^^;


私の買い物下手は、すでにここから・・・・

この頃に形成された、もうひとつの癖というか。
三つ子の魂、百まで・・・というか。

転園前の幼稚園で、好きだったイベントがありまして。
それは”バザー”です。

この頃から、物欲がすごく強かったからなー。
幼稚園でやるバザーがすごく好きでした。
手芸好きだったので、お母さんたちが作る小物とか。
いらんもんばかり、その場のテンションでねだってしまう、
衝動買いの買物スタイルは、ほんと今も変わりません・・・。涙

反省。

うーーーん、30年間、これできちゃったけど。
ここから軌道修正、可能かしらねえ。

お買い物は計画的に!慎重に!!(`・ω・´)ゞ


October 01, 1981 12:02 [自分史]

自分史:「2才アメリカへ」

まだ記憶のない時代シリーズ。
次は、もう2才。

―――2才・アメリカへ―――

2才になる手前の10月。私が1才半で、弟はまだ0才。
父の仕事でアメリカへ。

つーか、正確には、母からの”圧”(プレッシャー)を受け、
父はアメリカ行きをなんとかゲットしたらしいのですが。
まあそんな大人の事情は、1才児には関係ないわけで。

まあぶっちゃけて言うと、アメリカに滞在したといっても
1才児には記憶がないわけで。

アルバムに残された観光気分大爆発の膨大な写真たちを
見るのは、まあ楽しいっちゃ楽しいですけどね。
本場のハロウィンとかやっちゃってるし。

ああ・・・・でも。

記憶がないのが悲しいです。
このへんは何らか、自分のルーツに関係してるのかなあ。
自分ではチョットよくわかりませんです。
 

April 26, 1980 11:49 [自分史]

自分史:「弟の誕生」

次に1年後。「弟の誕生」編。
といってもねー実際は記憶があるわけじゃないので、
このへんは巻きでサクサク行ってみますー。

―――「弟の誕生」―――

私が、3330gで誕生したのに対し(←今で見るとやや大きめですけどね)、
4000g台の巨大児として誕生した弟。

4月26日生まれということで、5月の節句が近かったため、
かたわらにあった人形にそっくり・・という理由で「金太郎」と
名づけられる。

・・・て、あ、うそです。

さすがにうちの親もそこまで安易なネーミングセンスじゃないです(笑)。
でも半分本当で、その後、弟はわりと立派な名前をつけられたにも
かかわらず、「キンタロウ」「キンタくん」という名で呼ばれる少年時代を
送ることに。ちなみに「キンターーーー(怒)」の発音は、
トトロのおばあちゃんを参考にされたし。

まあそんなこんなで、生まれたばかりで頭まわりが、
1才児のわたしと互角・・という巨大児の弟を相手に、
この日を境に、日々熾烈なポジショニング争いが、
繰り広げられるようになるわけです。。。。

March 29, 1979 11:23 [自分史]

自分史:「誕生」

まずは「誕生」編ぐらいから。
このへんは・・・まあ事実関係ぐらいしか
書くことは特にないですけどね。

---誕生---

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1979年3月29日(木)に誕生。

見事なぐらいに奇数だけの生年月日です。特に意味ないけど。
ちなみに弟は、80年4月26日。こちらは偶数シリーズですね。
まあ関係ないけど。

本籍は東京都ですが、母の実家が千葉なので、
生誕の地はたぶん千葉。。
でもこういうときって、カテゴリー的には、
千葉生まれになるんですかね、それとも東京生まれ?

まあ、そのへんは臨機応変に使い分けてますが(笑)。

例:自己紹介 → 東京生まれ
  (ただし千葉の人がいる場合は千葉生まれにシフト)

例:ネットとかの占いコンテンツ→東京生まれ
  (両方やってみて、気に入った結果をチョイス)


まあそんなこんなで、誕生しまして、
「かおり」と名づけられる。

男子だったら、「剛(ゴウ)」だったとのこと。
まあ悪くないですね。でも育ってたらきっと、
すごくすごく小心者の「剛」くんになってたかもしれないので、
世の中、なるようになるっていうか。

ちなみに、名前の由来は「桃井かおり」からだそうです。
ミーハーな母。でも分からないではない。
そんなこともあってか、
「桃井かおり」はなんかちょっと憧れてしまいます。
私の今の”なんちゃって着物好き”な気分にも、
意外と桃井かおりの影響がけっこうあるかも。

まあ、そんなこんなで、
「天上天下唯我独尊」時代の幕開けです・・・・。

まあわずか、13ヶ月で、その地位があやぶまれていくわけですが。。。