ラブシャッフル

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loveshuffle.jpg ドラマ「ラブシャッフル」、野島伸司・脚本。
なんだろうね、このドラマは。と思いながらも、
毎週録画されてる枠だったから、なんかノルマ消化的に、
なんとなく見てたんですが・・・・舞台みたいな台詞まわしに
TVの(至近)距離感にはちょっと胃もたれするような演技。
・・・・なのに最終回10話、よかったです!超意外!!
バカみたいで薄っぺらくて軽薄な内容みたいな体裁の1~9話は、
ぜんぶこの10話を見るための温度をつくりあげるための前振り、
みたいな。(前説?)
喪失感。
人が体験する「喪失感」という感情。
突然やってきて、にわかに、受け止められないような大きな喪失感。
でも「失う」というのは、「得る(幸せ)」との表裏一体なことなわけで。
失うという行為で初めて、得たものとの絆を強めることもあって。
そのことで、「得たもの」が自分のなかに強く強く定着していって、
過ごしてきた(これからも含めて)人生の濃度を高めてくれるのかも
しれないなって。思いました。
以下は単なる自分的感想。
(自分が気になった・思ったことmemo)
“海里”
 「感受性の強い繊細さ」っていう身勝手に他人を傷つける刃物をもつ人は
 現実感のない自分の内世界に閉じこもって、まわりとのつながりを無神経
 に遮断して悦に入ったりする。”自分のことを失った世界”、という自分では
 決して目にすることのできない世界を、目にすることで、そこにある「現実」
 に触れる。。予想していた「自分のいなくなった喪失に対して時が止まった
 ように永遠に、悲しみを受け続ける世界」なんていうものはそこにはなく、
 リアリティ、生温かい人間の生きてく生命力・回復力、力強くも続いていく
 世界がそこにあって。でもその世界は自分のもう交われない世界。
 世界が自分を喪失したのではなく、自分が世界を喪失したことに気づく。
 …みたいなのを、「欧次郎」の喪失感を外から疑似体験することで、
 いろいろ”喪失”っていうことを理解していく「海里」目線で擬似体験。
“諭吉”
 諭吉と芽衣。同情や金じゃなくて”自分”を見て好意を示してくれた芽衣に
 想いがぐっと傾く諭吉。手に入れたいと思う諭吉のはしゃいだ愛情に対し、
 好きな相手の幸せを願わないというのは身勝手な愛情だと諭す芽衣。
 自分を見てくれる人が好き、という自己愛。好きな人と一緒にいたいと思う
 気持ちは、愛情?自己愛? 好きな人の幸せを願って身を引いて好きな
 人から離れるのが愛??・・・・やはりよくわからん。。
“玲子さん”
 子ども。うまく言えない。思うことはいろいろあるんだけど、うまく言えない。
 でもここが多分いちばん強いものじゃないかと、私は思ったりします。
 違うのかな。自己愛よりも男女愛よりも、子を思う母親の愛というのが一番
 強いものなんじゃないかな・・というのが私の印象。ステレオタイプな「母の
 愛」(母性)みたいなチープなものじゃない、そんなんじゃない、言葉にもな
 らない不可抗力的な強いものを、ここにいちばん感じます。(特にエピソード
 があるわけではないのですが・・・なんかその”存在”だけなんですが、そん
 な感じがしました)。
野島伸司って本当に人間オタクなんだろうな・・とかって
勝手に思ったりします。人間の奥まった部分を、
ごまかしなく、生粋に「言葉だけで」鮮やかに切り取る、みたいな感じ。
もちろん脚本だから役者の演技もあるんだけど、結局、「演技」は
伝えたい”言葉”を発するだけのための装置、みたいな。
そんな印象がありました。。。
そんな人間の深淵を思考してばかりで辛くならないのかな。
表現仕法も、媚びたり焦ったりしない緻密な設計にプロフェッショナル。。
を感じました。。(すべてまったくの見当違いな視点なのかもしれないけど、
正解を求める・・・というのではなく自分が今こう思った、ことのログとして)
# ・・・・てあれ?
# 今、TBSチャンネルロックで、ラブシャッフルの特番やってた。
# まだ次回、あったんだ。。。
# このまま10話のままで終わったほうが良い結果になりそうな…?
# すごくすごく「期待」感ゼロの不安の次回が、最終回だそうです。